大友杏葉武将隊とは

 大友杏葉武将隊(おおともぎょうようぶしょうたい)とは、大分市を拠点に火縄銃演武を通じて戦国時代、九州の覇者となった「大友宗麟」公の歴史と時代を変えた鉄砲の関連などを伝承する活動の「豊後大友宗麟鉄砲隊」がプロデユースした「おもてなし武将隊」です。

 2015年と2016年の大分市大友宗麟プロモーション市民提案事業に採択されたのを期に発砲演武のほかに「大友宗麟」の全盛期を支えた家臣団の中で杏葉家紋の使用を許された義に厚く勇猛果敢な武将を豊後大友宗麟鉄砲隊の精鋭が武将口上や殺陣などで演じて宗麟公と家臣団の絆をわかりやすく紹介しています。 大友氏館跡庭園や南蛮BVNGO交流館での「おもてなし活動」は武将姿で庭園の来場者のお迎え、パンフレットの配布、園内での注意事項の説明、記念写真撮影、グリーティングなどが中心です。ご来場の方々に、リアルに戦国時代を体感していただき宗麟公の栄華と大友氏館跡庭園の歴史を伝えます。

出陣武将


角隈 石宗

つのくま せきそう

不明~1578

軍配者として兵法、占術、気象予測に優れ大友氏の軍師的存在であった。肥後・豊前征伐戦に活躍。フロイスによると、日本の宗派に精通し、宗麟、義統、すべての家臣から尊崇(尊敬を超える)される「道学兼備の人」であると記されている。宗麟に島津攻略は時期尚早として反対したが聞き入られず、自ら記した秘伝の巻物「大事の所伝」を焼き捨て耳川に出陣し潔く討ち死にした。


立花 誾千代

たちばな ぎんちよ

 1569~1602

雷神・戸次道雪の一人娘として生まれた。父に似て気性が激しく、プライドが高く、武芸に秀でた娘に育つ。そして、わずか7歳にして立花城の城督を譲られて家督を継ぎ、戦国時代でも稀な女城主となった。

13歳で高橋紹運の長男「高橋統虎」後の立花宗茂と結婚。誾千代には多くの武勇伝が伝説として伝えられている。関ヶ原の戦いで宗茂の西軍が負け、東軍の加藤清正が柳川に侵攻した際には、誾千代自ら女中衆の鉄砲隊を指揮した。加藤清正は誾千代の軍との衝突を避けるため、侵攻ルートを迂回・変更したと言われています。


戸次 統常

べっき むねつね

1565~1587

鎧が岳城主の父 戸次鎮連(立花道雪の甥)が島津に内応し誅殺された為家督を継ぐ。名門 戸次家の汚名を晴らすため戸次川の戦いで豊臣・大友四国連合軍の先導役として鶴賀城の救援を志願。出陣に際し母は統常の幼い兄弟を刺殺し自害、統常に決死の覚悟を求めた。初戦、仙石軍、長宗我部軍と共に戦い島津の新納大膳隊に勝利したが、最期は主家に忠義を尽くし、一族郎党100名余と共に戸次川で壮絶な討ち死にを遂げた。

享年22歳であった

 


甲斐 宗運

かい そううん

1515~1583

肥後、御船城主、阿蘇家の重臣として大友氏と同盟し家名を守った名軍師。大友宗麟から「肥後支配の代官」「大友家の南の盾」と讃えられていた。六十余戦に不敗の逸話が示す通り、聡明で武勇に優れた名将で島津氏に「宗運のいる限り、肥後への侵攻はできぬ」とまで言わしめるほどであった。頑ななまでに主家に忠義を誓い、生涯を阿蘇家の為に費やした。


戸次 道雪

べっきどうせつ 

1513~1585

 鬼道雪、雷神とも呼ばれ総大将として出陣した戦には生涯無敗を誇る西国随一の猛将として知られ武田信玄が対面したいと希望した逸話が残る。若い頃雷に打たれ半身不随になったが戦場では輿に乗り陣頭指揮した。若い宗麟をいさめた逸話が数多く残る。大友家の脊柱として生涯にわたり大友宗麟を支え続けた。「立花宗茂」の養父、戦国最強の女城主 「立花誾千代」の実父。


斎藤 鎮実

さいとう しげざね

不明~1578

大友家重臣、筑後衆旗頭として龍造寺、筑紫、秋月、高橋などの強敵と対峙した。大友家の家督相続争い「二階崩れの変」では父の斎藤長実が主君 義鑑に宗麟の廃嫡を諫めた為、謀殺されるが宗麟擁立派として活躍し信任を得る。今山の戦いでは劣勢ながら二度に渡り龍造寺軍と戦って、自らも負傷しながら味方を救う戦功を立てて宗麟から感状2つを受け取った。日向侵攻を決めた宗麟に島津との戦が長引けば毛利、龍造寺軍が蜂起し3方面に敵を抱え不利であると諫言したが聞き入られず耳川で華々しく戦死。

 


鳩 兵部少輔

はと ひょうぶしょうゆう

不明~不明

天正14年(1586年)島津軍が200の兵船で「とち河原の入江」に攻めた戦い(津久見四浦合戦)で久保泊城にたてこもった鳩兵部少輔を中心とした四浦衆は、島津家久が派遣した内応の使者を斬り徹底抗戦を示した。報告を聞いた宗麟は鉄砲200丁と火薬、兵糧米を送り、意気上がる津久見四浦の兵は大筒や鉄砲で島津の大将を狙撃し見事、討ち取り大軍を撃退したと伝えられています。

 



吉弘 鑑理

よしひろ あきただ

1519~1571

大友家の忠臣と誉れ高き「死を恐れぬ」吉弘一族の長にして屋山城主、生涯のほとんどが戦いの連続だった。智勇兼備の武将で宗麟からの信任は厚く筑前の支配の全権を与えられた。弘治3年(1557年)から亡くなるまで大友宗麟の側近として活躍し臼杵鑑速や吉岡長増らと共に豊後の「三老」に列せられた。筑前岩屋城主の高橋紹運の父。石垣原の戦いで有名な吉弘統幸は孫にあたる。


臼杵 鑑速

うすき あきすみ

1520~1575

大友宗麟の元服の際の将軍・足利義晴の一字拝領、豊前や筑前をはじめとする守護職の継承など幕府との交渉、毛利氏や近隣諸国さらに影響下にある国人との交渉などは臼杵鑑速が行なっている。また軍事面においても、肥後の菊池氏や毛利氏との合戦にも従軍して数々の武功を挙げる活躍した弘治年間より兄の後を受けて加判衆を務め豊前方分、筑前方分を受け継いだ。また、戸次鑑連(立花道雪)や吉弘鑑理とともに大友氏の「豊後三老」にまで列せられた。立花道雪は筑前から手紙を送り「臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と嘆いている。


吉弘 統幸

 

よしひろ むねゆき

1563~1600

吉弘家 第11代当主。戸次川原の戦いでは大友義統の後備軍として劣勢の大友軍を立て直し、大分川左岸の祇園河原に300騎で布陣。見事な陣立てを見た島津義弘は深追いせずに退いたと言う。朝鮮出兵では敵の旗印を奪う手柄を挙げ豊臣秀吉から「無双の槍使い」と賞賛された。大友家再興をかけた九州の関ヶ原「石垣原の戦い」では義統に西軍不利を進言したが聞き入られず、黒田家の重臣、井上九郎右衛門と一騎打ちをし華々しく討ち死にした。



高橋 紹運

たかはし じょううん

1548~1586

筑前岩屋城・宝満城主 北九州の軍権を任されていた立花道雪の盟友として筑前国支配に貢献した。文武に通じ徳智謀達し、諸人に情深く忠賞も時宜に応じ私欲は無く、古今稀なる名将である。戦国史上有名な岩屋城の戦いでは凋落著しい大友家に忠義を貫き5万の島津軍に対し763名の寡兵で戦い玉砕した。豊臣秀吉が紹運こそこの乱世に咲いた華であるとその死を惜しんだと伝わる。


田原 紹忍

たわら じょうにん

不明~1600

大友宗麟の正室の兄として重用された。耳川の戦いでは総大将として出陣したが敗戦の全責任を負わされた。しかし島津方の史料では大友方の殿で最も奮戦していたのが田原紹忍と記述している。大友義の側近として天正15永禄8(1565)年頃から加判衆として活躍した。臼杵鑑速の死後は大友家の政治の大部分を預かるようになり宗麟の葬儀の出席や義統の嫡子・大友義乗(よしのり)の豊臣秀吉への謁見に随行している。改易後は岡城 中川氏の食客となったが東軍として西軍方の太田一吉攻め(佐賀関の戦い)に参加して鉄砲にあたり討死した。


柴田 礼能

しばた れいのう

不明~1586

大友家の諸公事のほぼ全てを任され府内奉行ともいえるべき重職を任されていた。熱心なキリスト教徒で槍の名手。宣教師に「豊後のヘラクレス」と呼ばれた。数々の戦いで軍忠を賞され、天正12年(1584年)には杏葉紋の使用を許された。大友宗麟と共に籠城した丹生島城の戦いでは、兄・柴田紹安が島津氏に寝返り先導役となったため、宗麟の疑いを晴らすべく息子と共に城を討って出て討ち取られた。宗麟は疑いを恥じ涙を流して大変悔やんだという。